子供のころから冒険家になるのが夢だった。他にも海賊とか空賊とかゴーストバスターズとかにもなりたかった。(笑)
でも、いつからか「そんなものにはなれっこない」と諦め、大きな会社に勤めて安定した収入を得られることを目指すようになていった。
そして、就職のためにパソコンを覚え、小さいながらもIT関係の会社に勤めた。システム開発やホームページ製作、パソコン教室のインストラクターなどの業務に携わり、いろんな経験が出来て楽しかった。結婚して子供も出来て幸せだったけど、ずっと胸につかえてるものがあった。それが冒険家になる夢だった。
いつしかその思いは日増しに強くなり、居ても立ってもいられなくなった。果てしない葛藤の末、なおみんに打ち明けた。間違いなく不安だったと思うけど、二つ返事でGOサインを出してくれた。
実はこの『とれはん.com』の構想自体は学生のころから持っていたが、実行に移せなかった。技術もなかったし、一緒にやってくれる仲間もいなかった。ましてや一人でやる勇気もなかった。思い切れた一番の理由は、それ相応の歳になったからでも技術が身に付いたからでもなく、人生最良のパートナーが出来たからだと思う。
誰だって将来のことを考えると怖い。先の見えない不安は山盛りある。でも、この先何年も想いを果たせないまま一生を過ごすことも、僕にとっては同じくらい怖い気がする。“それだったらいっそやっちまえ!いや、やるっきゃねぇべよ!”と僕は思った。
大学時代はあちこち旅に出た。
まずは1998年夏、自分試しにママチャリで四国を一周した。総距離約1,200km。14日間かかった。1日を除いては全てテントに寝袋といった野宿で過ごした。友達3人で徳島県からスタートし、途中、愛媛県のほぼ半周地点から一人旅となった。そして、最後はドラマのごとく感動のフィナーレを飾った、と言いたいところだが、実は最後はホームシックにかかり、嫌気をさしながら無理やりにペダルを漕いでゴールした。そこにあったのは「四国一周」という名誉しかなかった。
この旅では自分の弱さを痛感した。所詮一人では何も出来ない、ちっぽけな存在だった。それに気付けたという意味では良い経験になったと思う。
1999年夏、今度は車で西日本を一周。四国・九州を中心に友達4人との10日間の旅だった。これは我武者羅に楽しかった。全て野宿と車中泊だったが、全く苦はなかった。これまでの人生の中で一番楽しい時間だったような気がする。
この旅では、一人では出来ないことでも出来てしまう仲間のありがたみ、大きなことにも肩肘を張らずに気楽に挑戦することの大切さを学んだ気がする。
2000年夏、バリ島(インドネシア)へ。初めての海外。大学では”珍しい”という理由だけでインドネシア語を専攻していたので、文化実習という名目の元、同じ学科のメンバー達と40人ぐらいで約20日間滞在した。文化実習と言えど、ほとんどが観光と自由時間だったので、宿舎から外に出るといろんな人達と出会う。
僕はインドネシア語のテストはいつも赤点だったが、ジェスチャーなりノートに絵で書くなりして、現地の人達とも仲良くなった。そうすると不思議なことに自己紹介程度の簡単な会話なら頭で考えずともできるようになっていた。これまで3年間学んで出来なかったインドネシア語が、たったの2週間ほどでだ。帰る頃にはテストで良い点をとっている他のメンバーよりもよっぽど充実した会話が出来るようになっていた。
"何事も机上だけではダメだ。肌で、目で、耳で、口で、鼻で、五感をフルに使って体感せねば!”それが信条になった。帰国後、テストの点が良くなったかというと、不思議なことに相変わらず赤点だったが…。
2001年夏、マレー半島縦断。(日本→韓国→タイ→マレーシア→シンガポール→インドネシア→日本) 我ながらすごい企画だったと思う。同じ学科の友達と2人で22泊24日の旅だった。僕は英語が話せない。インドネシア語も日常会話がカタコトぐらい。友達は英語がカタコトで、インドネシア語は皆目ダメ。
とりあえずバイトで貯めたお金で韓国経由タイ行きの飛行機のチケットを買った。それから旅費となるギリギリの額8万円を貯めて出発した。帰りのチケットは24日後、インドネシアのジャカルタから関西空港への便を抑えている。その間のルートは現地で確保する。バスなり電車なりヒッチハイクなり、どんな手段を使ってでも期日までに辿り着かねばならない。
いくつもの試練を乗り越えた。言葉も文化も通じない国々で電車やバスのチケットを取るだけでも容易ではなかったし、陸路での入国審査なんかも全てが初体験で毎日ドキドキしっぱなしだった。途中、真剣に誘拐されたと思った事件もあった。次の目的地への移動中、行き先で爆発テロが起こったことを知らされたこともあった。が、とにかく僕は無事に帰国した。
"何でもやれば出来るんだ。どんな形にしろ成せばなるんだ!” ある種の悟りを啓いた。出発前は半信半疑だったことが確信に変わった。
こうして夢のような学生時代はあっと言う間に過ぎ去り、"社会人になったらもうこんなことは出来ないんだ”、と腹をくくっていた。"次にこんな気ままな旅が出来るのは定年後かな…”なんて思ったりもしていた。
社会人になってからはさすがに旅には出られず、連休が来る度、山へ海へキャンプやスノーボードへ出かけた。僕もなおみんも自然が好きなのかインドアが嫌いなのか、とにかくアウトドアにハマった。平日は会社へ出稼ぎに行き、連休が来れば自然へ帰る。そんな感じだった。それはそれで楽しかったけど、僕はなんだか妙な不自然さを覚えていた。
いつも一緒にいた二人だったから、結婚は必然だった。やがてもかちんが生まれ、僕は家族との時間を求めるようになった。でも、それはなかなか難しいことだった。といっても、そこらのビジネスマンに比べると帰宅する時間は早かったと思うが、僕はそれだけでは不満だった。
もっと子育てにも参加したかったし、もっと家族でいろんなことを分かち合いたかった。それでも“みんなそれでがんばってるんだ”と思って我慢した。その頃から僕の感じていた言葉にならない不自然さはますます増大していった。
僕が勤めていたのは、社員5名ほどのIT関係のベンチャー企業だった。幸いなことにスタッフも良い人ばかりだったし、勤務時間や給与面などにも特に不満はなかった。ソフトウェア開発・Web製作・パソコン教室を中心に運営しており、僕はインストラクターもしていたので夜の授業がある日は別として、帰る時間もそんなに遅くなることもなかった。
何より小さな会社だったので、社長とも直に会話が出来、経営理念のようなものもよく聞かせてもらった。僕にとって社長は多大な影響を与えてくれた人であり、最も尊敬する人物となった。それだけに僕はいつの日かその手を離れて自分でやってみたい、と思っていた。
初めに言い出したのはなおみんだった。「会社辞めて居酒屋でもやろっか。別に喫茶店でもお花屋さんでも何でもいいねんけど。」その意味を理解するまでにそう時間はかからなかった。
「家族で一緒にいよう。家族との時間をもっと増やそう。家族で力を合わせて生きていこう。」そういうことだった。僕の感じていた不自然さをなおみんも感じていた。それは理屈ではなく、直感的なものだった。もちろん自営が容易だなんて間違っても思っていなかったが、僕の野心に火がついた。
「それならひとつアイデアがあるねん。」
とれはん.com が起ち上がった瞬間だった。
といった経緯で今は念願叶ってトレジャーハンターをやっています。家族力を合わせてがんばりますので応援よろしくお願いいたします。もちろん僕達自身、全身全霊で楽しんでいきたいと思っています。共感をいただけた方、いやいやそれは違うよという方、「掲示板」、「メール」にてメッセージをいただけると嬉しいです。(^-^)
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